カナカナのーと

日常の気になることを書きます。

努力の量は自分では計れない。

センター試験に行く息子を駅まで車で送った。家から自転車で片道3.5キロ。これを息子は自転車で駅まで行き、電車に乗る。センター試験の日は特別!ということで、車を出した。

「送ってくれるん?」嬉しそうな顔。

「今日と明日だけ特別やで。」と私。

その車の中で、息子はこういった。

「俺、この道をチャリで三年間頑張ったわー。」

「何言ってるん?たかが3.5㌔やで?普通です。ふ、つ、うっ!」と私。

「でもな、お母さん俺だけやで!あの駅まで自転車で通ってたん。」

 

ご近所で同じ高校に行く息子の同級生は最寄り駅から一駅電車に乗っている。そこから私鉄に乗り換える。

うちの息子はこの一駅を自転車で通った。そして私鉄に乗って学校へ通った。

それを「頑張った」と言うので、「いやいや。ちょっと待って。お母さんからしたら、一駅電車にのるほうが、軟弱やし!それは頑張ったとは言いませーん。」

こう言ってから考えた。

周りがもし全員自転車通学していたら、息子はそれが「当たり前」と思っただろう。決して、頑張ったとは言わなかったはずだ。友達は優雅に電車で通うのを、寒い日も一人自転車で通い、一駅電車組の友達が羨ましかったのかもしれない。

 

人は人との比較で、自分の努力の有無を計るのだ。

そう考えると、戦中、戦後と生きた人たちは、日本全体が必死で復興したので、その当時、自分が苦労したとか努力したとかきっと思わなかったのだろう。

でも、今の私達の生活から考えると、それは並大抵の苦労ではなかっただろう。

人は自分のコミュニティーの中で、人と比べて、頑張ったとか努力したとか感じるだけで、そのコミュニティーから抜け出すとその努力は努力でもなんでもないことだと気が付く。

私自身も、子供が4人も居て大変だーなどと言うときもあるが、それって6人育てたおばあちゃんからしたら、カスみたいな動きなんだろうと思う。

 

自分で努力したとか、頑張ったとか感じたときは、自分の勝負する世界がとても小さいところなのではないかと、自分自身を振り返ろう。

 

そしたらきっとこう思える。

「いや。まだまだ出来るはず。」

 

だから、たかが3.5㌔自転車で通っただけの息子には「頑張ったね」とは絶対に言わない。